りんねさんちの発達家族

その都度気まぐれ発達ライフ

ややわかりにくい自戒←対等でありたいということ

人は、人を上に見たり下に見る。

 

対等でありたいとは思う。

けど、下に見たことがあるし、何度も下に見られたこともある。

 

下に見てしまう人とは早めに離れる。上に見てしまう人は場合によるけど。学ぶものがあれば繋がりを保つし、自分を卑下しすぎるようならやっぱり離れる。

 

 

仕事をしていて、だれがそれがと思うことはある。それでも、人生に価値を感じるから、年相応の敬意を払いたい。

 

人を介護する、看護する、診る、職業に就いていると、わたしなどよりも立派な方にまで敬意を払われることがある。叶わないと思われることがある。病気を持っているからというだけで、逆らえないと、上に見られることがある。

 

それは、あくまで、スキル的なことであって、決して、人として上ではない。

 

人がいるから、成り立つ仕事でもある。人がいるからこそ必要な仕事である。あなたがいるから、わたしは、あなたを看るのだ。

 

 

かなり前の話、カウンセラーを探したいときに、ブログのプロフィールに『ポジティブな人が好き』と書いているカウンセラーがいた。

 

ポジティブシンキングの人は、ネガティヴシンキングの人を下に見る傾向ありませんか?わたしはそう感じてしまうので、そのプロフィールを見て少し嫌な気持ちになったし、その人には相談しないと思ったし、むしろ、なんでカウンセラーをしてるのかとまで思ったりした(余計なお世話である)。

 

ポジティブな人にカウンセリングいらんやん。

 

 

ちょっと話外れるけど「お互い様」という言葉は、迷惑をかけられた側が言うものだと思う。迷惑をかけてる側が「お互い様じゃん!あんただって迷惑かけることあるでしょ!」は違うように感じる。

 

そういうのと似たようなニュアンスで、他の人を励ますのにその対象者を理解しないと思われる周囲の人をやや卑下するような言い方をすることもあると思う。でも、それを、自分で言ってしまったら、やっぱり何か違う気がする。

 

対等でしょ、お互い様でしょ、は、お互いが譲り合っている場合に成り立つんだと思う。対等だと思っているときに成り立つんだと思う。

 

良くも悪くも、そういう言い回しを、常に気持ちよく使えるように心がけたい。

違う道を選びながらも手を取り合うこと

よく聞くこと。かつての友人にも言われたこと。

 

「子持ち主婦は使えない。子どもの都合でいきなり休む。」

 

子どもがいるからって休まれたら仕事の仲間に迷惑かかるんですけど、というプレッシャー。正直、プレッシャーなんかかけられなくたってわかってるし、ちゃんと申し訳ないとも思ってる。それでも、仕方ないのは、共働きでないと生活できない世帯が増えていること。この世の中がそういう方向へ流れているから、子育てしにくくなってどんどん子どもは減っている。

 

仕事しながらの子育て、が、とても難しい。

 

子どものいない人たちの理解はあまりない。なんだかんだで、母親が子どもの生活管理の責任の多くを担っていて、子どもに何かあった時、まず仕事を休むのは母親。だんなは、当たり前のように、じゃあ今度は俺が休むという選択肢はない。

 

そうなると基本的に母親はパートかアルバイトどまり。それでも、やっぱり、休まれると困る(それ自体はわかります)、でも、こちらも働かないと困る…。

 

雇用側も葛藤してるんだろうけど、当の主婦パートも葛藤してます。迷惑をかけてる、でも働かないわけにはいかない。

 

まあ、中には、当然でしょ仕方ないでしょ、って人もいるだろうけど…それに関してはなんにしても、そういう、自己中心的な人は一定数存在するので。

 

でも、あんまり、子持ち主婦のそういうどうしようもない面をあげて、使えねえ、とか言われまくると、ちょっと反発もしたくなる。

 

 

じゃあ、誰も子どもを生み育てなくなったら?

 

誰も休まない、仕事は問題なく回る。でも、子どもは減っていく。若者は減っていく。

 

それまでに、全て機械化されて人間が必要なくなるかもしれないけど。

 

年を取って、若い人の手を借りたいと思った時、その若者は、使えねえ主婦が、周りからいろんな嫌なことを言われながらも育て上げた1人かもしれない。

 

子育て中の主婦が休み、フォローに入ること。目の前のことだけを考えたら、フォローに入る方だけ損をしているように思えるかもしれない。

 

でも、フォローをしたことで、一人の子どもが無事に成人し、社会に貢献できるようになるために必要なフォローであり、いずれ、その子どもたちが、年を取った、子どものいない人たちに手を貸す日が来る。

 

人に手を貸すことを厭わない人間に育つよう、いろんな人の協力を得ながら、この世は助け合って生きていくということを感じさせながら。

 

子育てをする人、子どもを持たない人、それぞれの人がそれぞれの立場で、お互いを尊重しあって、心に棘を抱かなくても助け合うこと手を取り合うことが、できるようになったらいいなあ。

より良い明日のために

最近何かと、普通、になったなあって思うし、普通って言われるし。メンガヘラッテルなんて全然わからないって言われるし。

 

良いことだけど、ちょっと悲しいことでもある。

 

楽しい青春とか学生時代とか、20代のキラキラした感じとか、まったくなく生きてきて、でもきっと、そういうのも当たり前に経験してきた普通の人、と思われてしまうこと。

 

こんなこと言うとまた、

 

不幸自慢でもしたいの?

 

とか思う人もいると思うんだけど…

違いますよ?

 

ただ、普通じゃなかったわたし、も、わたしであったし、普通でなかった頃のわたし、と、精神面が劇的に変わってるか、というと、そういうわけでもないんです。

 

経験を積んで克服したんだね、とか、努力して自分を変えたんだね、とか、そういうの、なんか違うんです。

 

 わたしは、普通じゃなかったけど、この世界は、わたしが普通であることを望んでて、普通でなければ生きる価値がないくらいの経験をたくさんしてきて、仕方なく、変わったんです。

 

残念ながら、内面はそんなに変わってません。見た目だけ化けた、とでもいいましょうか。

自分の内面を、うまく外に出すことができるようになった。

 

今のわたしが、もし本当に普通に見えるなら、だから、過去のわたしは、がんばらない怠け者でもなかったし、人のことを考えない協調性のないわがままな人間でもなかった。

 

じゃあ、なぜ、みんなあんなにわたしを責めたのか…

 

それがなんだか悲しく残ってしまう。

 

わたしは変わってない。ネガティヴだし、不器用だし、人や集団は怖いし、おっちょこちょいだし。

 

寂しがりやで人が好きで、優しくなんかなくて、ヘタクソでも何か作って絵を描いて。

 

空を眺めて、朝と夜を繰り返して、たくさんの夢を見て。

 

この先のことがわからなくて不安で。

いつでも消えたくて。

 

 

ふるまいが変わったなら、努力した。だからあなたは変わったと、やっぱり言われるんだろうけど、何かそれは悲しいんです。

 

あの頃のわたしは今よりもっとがんばってた。

それを見過ごされて、いろんな人に嫌がられて、不快にさせて。

 

気持ちは何も変わってない。

周りに嫌な思いをさせず、笑顔でいて欲しかった人たちがたくさんいた。でも、わたしはその人たちの笑顔をほとんど見ることなく、わたしの嫌な人間らしい振る舞いのせいで、怒りや不快の表情だけを見てきた。

 

今は、笑顔に笑顔が返ってくることがとても安心することなんだって思う。子どもたちに笑いかけると、必ず笑い返してくる。当たり前のことなんだろうけど、それすらできなかったわたしは。

 

 

 

表面的には、普通の人になって、いろんなことがまたわかってきた。でも、目指したのは、そこじゃないんだな…

 

普通でも、朝起きて歩いてから朝の家事して仕事に行くなんてなかなかしないよーすごいよー全然大丈夫だよー

 

わたしは、ただ、もっと、より良くしたいだけ。体力をつけること。生活を整えること。やっとその基本的なところに気を配れることができるようになった。それもムラがあるけど。

 

普通だよ。

 

普通じゃなくても良かった。ただ、苦しい辛いが嫌だった。

 

これからも、別に、普通じゃなくていい。ただ、生きなきゃいけないならよりよく生きたい。悲しい顔のお母さんじゃなく、笑顔の、元気な、お母さんでいたい。